5.平和の観音像
原爆の子の像の前の車道に沿って西に少し進んだ木立の中に、一体の観音像が立っている。
西側から本川橋を渡って公園に入ってすぐのところである。
「平和の観音」と名付けられたこの仏像には、こんな説明が刻まれた石板が添えられている。
嗚々 中島本町の碑
この地は明治・大正・昭和の
初期広島で最も繁華の
中心であった。
昭和二十年八月六日原爆一閃
町民全員一瞬にして悲惨な
る最後を遂げたり
生き残れる有志相集って
平和観音像を建立し永遠
にその霊を慰む
中島平和観音会有志
そして、被爆前の町内地図を再現した銘板がある。
T字型の相生橋、西の本川橋、東の元安橋の3つの橋は今も同じところに架かっているので、それを頼りにいまの平和公園と重ねて考えられる。
現在の平和記念公園全域では、中島町を含む5つの町があった。
爆心地からの距離は、いずれも500m以内。
爆発の閃光直後の衝撃波ですべての建物がなぎたおされ、熱線を浴びた木造家屋は瞬時に高温になる。
衝撃波の通過で一瞬真空となった町へ空気が逆流して、高温の家屋は一気に炎上した。
丈夫な鉄筋コンクリートで開口部分が小さい建物は高温になりにくかったのだが、窓から熱線が入り、次第に燃え出す。
爆風や熱線の直撃を免れた屋内の人々も、大量の放射線を浴びて急性放射線障害になっている。
この公園のエリアだけで、住民約3700人、建物疎開作業中の人1800人以上が即死したといわれている。
毎年八月六日午前九時より、平和の観音像前で慰霊会がおこなわれている。